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毎週末がお祭り騒ぎだった25年前




フェリー埠頭・・・

この言葉を聞くと、私の走り屋時代の全てがここに詰まっていると言っても過言ではない程、思い入れのある走り屋スポットでした。

私の知らない方がYOUTUBEにアップロードしたのも、奇跡に近い話しなんですが、なんせ動画の時代はさかのぼること1992年・・・ 今から25年前の東京湾岸なんですから・・・。

東京湾岸の1992年代と言えば、まだレインボーブリッジが開通していない時代で(開通は1993年5月)、この界隈は陸の孤島という言葉が相応しく、交通の便もまったく乏しく、本当に埋立地という殺伐とした印象がとても強かった。橋が掛かってなければ、フジテレビもデックス東京も、湾スタ、湾岸署、とにかくあそこらへんに全く何もない時代。


この動画は1981年の船館~お台場近辺の貴重な映像ですが、本当に何もなかったんですよね~  
13号地



私も埼玉県民で、東京の事を偉そうに講釈垂れるほど精通はしておりませんが、高校を卒業する前くらいからフェリーには通いだしたのではないかと思われます。

当時は全国津々浦々、そこらじゅうに走り屋スポットが点在していた訳ですが、フェリーが全盛期の時は、既に水産は度重なる大掛かりな検問などで、壊滅状態。他にも青海埠頭、新木場、辰巳、もっと古く言えば船館とありましたが、とにかくすぐに人が集まって規制が厳しくなり、公安の取り締まりや、キャッツアイ、減速帯が入ることで次々と閉鎖を余儀なくされていました。

フェリー埠頭もその短命に終わったスポットの一つで、人が集まりはじめてからは1年半持たなかったと思われます。

当時のフェリーは、終末に1200台を越えるバイクが集まっていたとマスコミで報じていた記憶があります。本当にもの凄い台数が倉庫を周回する左回りのコースに集結し、その様はまるで数珠繋ぎのようになっていて、コースインするのにも、隙間がなさ過ぎて入れないという状態でした。

東京湾岸の中で、フェリー埠頭を語る人があまりいないのは当然かも知れません。何故って本当に短命に終わってしまったスポットだからです。ただ、フェリーを見た事や走った事のある人は、一生忘れる事が出来ないくらいのとんでもない祭りが毎週末繰り広げられていたと、きっと鮮明に記憶に残っている事だと思います。もっともその時代は至る所に、面白いストリートカルチャーが点在していて、ここだけが局所的に盛り上がっていた訳ではなく、日本中が盛り上がっていたような感覚は今思うとあったかと思います。


当時私の率いる会は埼玉県からだいたい平均して35~40台くらいで自走下道でフェリー入りしていた時代もありました。

私たちも当時はまだ17~19歳の若造でしたが、走りに関しては熟成の感もありましたので(当時のストリートレベルですが)、まーブイブイ言わせていたと思います。

コースが広くて、台数がハンパじゃなくて、公安来たら、お台場海浜公園に非難して(本当に当時は何もない)、ホットドック食って、ジュリアナ帰りでボディコン着たお姉さんが冷やかしにきて、ツナギを着た男どもがヒューヒュー言ってて、本当に懐かしい思い出ですね。


峠にはない【祭り】感が非常に強かったのが湾岸エリアで、あの興奮は一生ものだと未だに思っていますね~。ギャラリー手前にキャッツが入った後ですが、このキャッツはまだまだ問題ありませんでしたね。


この動画では本当に多くの仲間が写っていますね。伝邪羅守リーダーのNSR50(80)、ワダンゴ、赴流晩駆リーダーのKISSカラーNC,風族のYさんのKSR、魔界天使のM木のKSR、Hるちゃんの紫KSR、通勤快速のT田くんのKSR、27VのT橋さん、ハッスルジェット、おやゆび姫、ぱっと見ただけでも、かなりの台数の仲間内が走っています。

この台数の中で、「じゃあ一体誰が最速なんだ?」って、話しなんですが、みんな色んな思いがあると思うので、ここではあえて言及しません。


フェリーが潰れてから、東京湾岸は公安が本気で走り屋対策を始めたようで、2年くらいは東京湾岸のほとんどのスポットはここまでの台数が集まることはなくなりました。この後にほそぼそと若洲でまた集まり始める訳ですが、フェリーの興奮はもうそこにはありませんでしたね・・・。


とにかくこの動画の1992~1993年くらいがバイクの走り屋が一番流行っていた時期で、この後にはアメリカンブームなどが来て、まだ楽しい遊びも当時は沢山ありましたから、みんなそれぞれ違う道に進んで行ったのですよね~


実は俺もこの動画にいるはずなんだけどなって探したら、一瞬ですがマルボログリーンのJOG見切れていました。まー当時マルボロのメンソールもない時代にマルボログリーンをカラーリングに採用していた訳ですから、ある程度の先見の明はあった?←



今じゃツイッターSNSで、みずから主張する時代のようですが、あの当時、こんな場所に行くと憧れの存在や勝てそうだけど勝てないライバルみたいなのが現れるんですよね。それはリアルに実際目で見て感じて、かっこいいな!って思う事が、きっとあの時代の人達にはたくさんあって、見ず知らずの人に説明するときは「とにかく行けばわかるよ」って良く話してたっけと。今となっては懐かしいですけどね~。

時代は変わり、誰もが情報を発信出来るようになって便利にはなりましたが、密やかに楽しむということは、今の時代には難しくなってしまいましたよね・・・






この写真は1992年の冬、私が18歳の時、働き始めて当時勢いがあったベリアルで制作してもらったワンオフチャンバーを付けた時。このマシンでフェリー、裏水産走ったのも、今じゃほんと懐かしい記憶です。
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自分の投稿コメントの挨拶文みて、「あー俺まったく変わってないんだな!」ってちょっとびっくりしましたけどね。とにかく自分も10代の頃からずっとヤマハ縦型エンジンな訳です。




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